「出羽三山」とは「月山」、「羽黒山」、「湯殿山」の三つのお山を総称しての呼称ですが、そのなかで「三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」など出羽三山の中枢機能が集約されている羽黒山の門前町・「手向(とうげ)地区」には宮下坊の他にもあり、合計で30軒ほどの宿坊が点在しております。因みに羽黒山は通年で参拝可能、月山は7月1日、湯殿山はGW前に開山に為ります。 出羽三山の主峰である月山頂上に至るには複数の登拝(登山)ルートが在りますが、修験道の擬死再生のテーマに基づいた参拝ルートとしては「月山8合目→月山頂上→湯殿山」のルートを踏破される事を推奨致します。但し、前日に羽黒山をご参拝される事が必須と為ります。 |
The Dewasanzan , the three Mountains of Dewa , hold a special place in the hearts of the Japanease. The mountains were first opened as a religious center 1400 years ago in 593 by Prince Hachiko , the first-born son of then reigning Emperor , Sushun , who was the 32th emperor of Japan. When Price Hachiko came to Haguro , he went through difficult and severe ascetic exercises. After enduring a period of penance , it is said that he saw an incarnation of Buddha and was then inspired to build shrines on Mt.Haguro , MT Gassan and Mt.Yudono. Bringing these deities to Mt.Haguro , he named this main shrine Dewasannzann shrine. |
インデックス | |||||||||||||||||||||||||||||
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《出羽三山全景図》 | |
昭和の初期に描かれた出羽三山の全景図です、少しデフォルメをして描かれてはおりますが大まかな位置関係は現在と同様です。尚、一番手前が「羽黒山」、少し離れて右側に「月山」、更に一番奥が「湯殿山」と為っております。 |
《羽黒山の石段》 | ||||||||||
出羽三山の中枢的なお山である「羽黒山」へは麓の手向(とうげ)地区の「随神門(ずいしんもん)」から羽黒山頂の「三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」へ向けて全長1.7q、2,446段の石段が続きます。沿道には樹齢が300〜500年の国宝の大きな杉の木・約400本が立ち並び、真夏の強い陽射しがあっても快適に登ることが可能です。通常、五重ノ塔は神社仏閣の最も目立つ場所にシンボリックに建てられているものですが、当地の五重ノ塔(※S41年に国宝に指定)は石段の途中の杉木立の中にひっそりと佇んでおります。因みにこの石段は羽黒山第50代の別当(※現在の“宮司”に相当する役職)であられた“天宥(てんゆう)”の号令の下に西暦1648年から完成まで13年の歳月を要して造られたと伝えられております。江戸時代ですから現代のように重機などはありません。全て「人力」と「馬」の“血と汗の結晶”で造られた石段でもあります。そのような意味に於いてこの石段は今も昔も「日本一の石段」であると謂えるのではないでしょうか。映画「蝉しぐれ」では主人公の牧文四郎が捕らえられた父に会う為に山中の寺院に向かう際に石段を歩いてゆくシーンがありましたが、その石段がこの羽黒山の石段(※五重ノ塔付近)ですので、当地にお越しに為る方は映画を思い出し、未だご覧に為られていない方はこの映画のDVDをご覧に為ってからお越し戴ければ更に充実した旅と為るでしょう。 From Zuishinmon gate to the top of the Mt.Haguro , Sandou(the front approach to the shrine) and Suginamiki(cedar trees line) , about 1.8q , were constructed by Tenyubettou , 50th chief priest(the representative of Dewa’s three religious mountains) in 1648. It took 13 years to complete them. |
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石段の中間点には二の坂茶屋という休憩施設があります、詳細は「バックナンバーのページ」にて紹介しておりますのでこの場では割愛をさせて戴きますが、この茶屋ではここでしか発行されない“石段踏破の認定証”を無料で貰う事が出来、旅の記念に大好評を博しているようです。但し!、お店の人に申し出なければ貰えませんのでこの認定証をご希望される方はキチンと申し出て貰うようにしましょう。 | ||||||||||
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二の坂茶屋を過ぎて約200b歩いた地点、つまり、三の坂の上り坂手前から右側方向に看板とその脇から更に右側に分岐する小さな道が見えてきます、そこから約400b歩いた先に「南谷(みなみだに)」と呼ばれる場所があります、この場所は江戸時代に築かれた大寺院(別院→紫苑寺)の跡地であり、苔むいた礎石と心字池の中ノ島に置かれた蛙の石物が往時の面影を伝えるひっそりとした場所です。実はこの南谷という場所は元禄2年(1689年)の6月に俳聖・松尾芭蕉と河合曽良が地元の呂丸という俳人の案内で訪れた場所で彼等はこの地に6日間滞在したという記録が残っており、更にその際に芭蕉がこの地で「ありがたや 雪をかほらす 南谷」という俳句を詠んでおります。 | ||||||||||
石段から分岐する南谷へ続く横道 (看板の右側の小道です) |
南谷別院跡地 (左側にあるのは東屋です) |
南谷別院跡地にある池 |
…と通常の観光案内や旅の情報誌では上記のように南谷を紹介するものですが、実はこの地を訪れる際に「大きく注意すべき点」があります。石段の区間は絶えず人通りがあるのですが、石段の横道から南谷へと通じるこの小道と南谷は普段から人気(ひとけ)が無く、ひっそりとしている場所ですので女性が単独や少人数でこの地を訪れたりはしないように願います。第二に総じて陽当たりが悪く、途中の小道の状態が常にぬかるんだ状態にありますので特に雨が降った翌日などは大変に靴が汚れますので何としてもこの地を訪れたい方は長靴などを持参された方が無難かと存じます。 This is the site of a temple which Tenyubettou , the 50th chief priest built in 1662. A great pond used to surround the temple , and cherry trees were planted in the precinct. Matsuobasyou , the honorable haiku poet , stayed here on his way while traveling in Okunohosomiti . |
湯殿山御祓所 |
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写真の左側の御祓所の前でお祓いを受けた後に写真中央の門をくぐって湯殿山の御神体を参拝することになります。 さて、何故にこの場所で裸足になるのか分からないままに靴と靴下を脱いでいる人が大半なのでありますが・・・、「この御祓所から先は御神体の一部である(神殿である)」ということに依ります、ですから 素足で参拝することになるわけですね。 尚、この先は写真等の撮影は厳禁です。 |
湯殿山御祓所の前 (靴と靴下を脱ぎます) |
女子更衣室 (女性のみがご利用出来ます) |
湯殿山本宮前の御神水 (大変に美味な水です) |
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※ 湯殿山の御祓い所の前には大変に美味しい御神水が湧いておりますので、お持ち帰りをご希望の方はペットボトル持参の上でご参拝下さい。 |
黄金堂(こがねどう) 鶴岡から羽黒方面行きの路線バスにご乗車に為った場合、宮下坊へは「黄金堂前(こがねどうまえ)」と云うバス停で下車をしますが、そのバス停を降り立ったところには「黄金堂」があります(※拝観料は200円となっております)。尚、拝観するにあたっては予め黄金堂を管理している「正善院(しょうぜんいん)」という道路を挟んで向かい側にあるお寺に日時と人数を連絡することが必要です。さて、この黄金堂の建立の時期は諸説があり定かではありませんが、一説には西暦1193年に源頼朝が建立したという説が有力視されております。昭和25年に国指定重要文化財に指定されている由緒のある建築物であります。当地にお越しの際は折角の機会でもありますので拝観されることをお奨め致します、「朱印帳」も記帳して戴けます(※別途300円が必要)。 |
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「朱印帳」…本来は参拝者が参拝した時に自らが書写した経文を納めて祈願をした証(あかし)としてお寺から戴いた御判であり、巷の観光スタンプなどとは異なるものですので大切にお取り扱い下さい。尚、朱印帳は全国のお寺や神社などで通常は1,000円前後で販売されておりますのでこれを機に(朱印帳を)お買い求めの上、朱印帳デビューされてみては如何でしょうか。 |
《奧の細道》 | ||||
松尾芭蕉は西暦1644年10月12日に現在の三重県伊賀市の松尾家の次男としてこの世に生を受けました。1672年に句集「貝おほひ」を伊賀市の上野天満宮に奉納、1675年に江戸に引っ越し、1678年に宗匠と為り、職業的な俳諧師へ為りました。1680年に現在の東京都江東区深川に草庵を建てた際に門人から芭蕉を贈られて、それを一株植えたところが大きく繁ったので、後にこの草庵を「芭蕉庵」と称するように為ったと謂われております。 1689年、芭蕉は弟子の河合曽良を伴って約半年にも渡る月日を掛けて東北地方や北陸地方を旅しましたが、無論、出羽三山にも逗留しました。その道中の一部始終を綴った「おくのほそ道」を1691年に世に残した訳ですが「おくのほそ道」という言葉、これは文学に興味をお持ちで無い方でも、その文章や随所に散りばめられた俳句など記憶にある方は多いのではないでしょうか。その後、1694年11月28日、芭蕉は大阪の御堂筋の旅館の一室にて享年五十歳で逝去したのですが、その直前に「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という俳句を辞世の句として残したとされておりますが、これは芭蕉が死期を悟って残した句では無く、結果として辞世の句として後世に伝えられているに過ぎないとされております。 当地に於いて「おくのほそ道」とは出羽三山とセットに為って紹介されておりますが、他に鶴岡市内の長山邸(ながやまてい)に逗留した際にも「めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび)」と云う俳句を詠んでおります。この俳句、長山邸は庄内藩の酒井家に仕えていた長山五郎右衛門重行の屋敷であり、夕食に供された「小茄子」のもてなしに心を打たれて詠んだ句とされております。尚、この時、芭蕉は体調を崩しており、思いがけず三日間逗留したとされております。 |
《世界遺産についての一考察》 | |||||||
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《世界遺産に名乗りを挙げるまでの経緯》 “オラが県にも世界遺産を!”と世界遺産の本来の崇高なる趣旨を日本独自の観点から、単なる観光客誘致や地域興しへと解釈をした「猫も杓子も世界遺産ブーム」の機運が全国的に高まっている昨今、山形県も負けじと平成16年度から出羽三山を中心に平成27年頃を目処に世界遺産に登録すべく有識者で構成する推進委員会の設立を行い、国内候補地のリスト入りへ向けて行政側が地元住民への説明や意向は敢えて避け、一方的に音頭を取って準備を進めた事に端を発します。その後、国が平成18年9月より公募制に切り替えた事から各自治体の関心が高まり、最終的には山形県を含め、24の国内候補地入りに向けた申請があったそうです。 日本独自の世界遺産の解釈が「参拝地」、「景勝地」、「観光地」であるとするならば、本県に於いては「山寺」や「蔵王」なども全国的にも知名度が高く、最も有力な候補地であると思われるのですが、「山寺」は純粋に山形県のエリアに属しているものの、このエリアの一帯の農地は野生の鹿の食害を頻繁に被っており、定期的に(鹿の)駆除が行われている地域ですので世界遺産に伴う規制に因って(山寺エリアの住民にとっては)有害獣でもある鹿の駆除が不可能に為ってしまうと農業生産にも大きな痛手を被ることに為ります。一方、「蔵王」は三分の一のエリアが宮城県に属しており、万が一に(蔵王の申請を)目指して行動を起こせば県境を挟んで山形県と宮城県とで揉め事が発生するのは必至である上、嘗て両県の間では県境を巡って熾烈な争いがあったという苦いしこりもありますので、再び別の問題で対峙するような事態は避けたかったのでしょう。又、今日(こんにち)では経済的な面やアクセスの面でも(山形県は)宮城県とは対等な関係にあるとはいえず、逆にあらゆる面に於いて依存しておりますので、そのような観点からも揉め事を避けようとした姿勢は懸命とも謂えるのでしょう。因みに(宮城県は)「松島」を世界遺産登録すべく行動を起こしているようですので「(宮城)蔵王」には関心が無いようです。 上記とは別の観点からや「山寺」や「蔵王」が候補に挙がらなかった最大の要因として囁かれていることとして、これらの場所が「山形市」のエリアに存在していると云うことに起因しているから…と観る向きもあります。つまり、『(山形県としては)県内に何としても世界遺産の称号は欲しいけれども、お膝元の山形市にある「山寺」や「蔵王」が世界遺産に伴う多くの規制の網が掛かるのは何としても避けたい…。』として「山寺」と「蔵王」を“山形県代表の世界遺産候補”として除外されたともされております。このように考えれば全てが納得出来る上に新たな山形県代表の世界遺産候補として名前の挙がった「最上川」もその流域に於いて山形市を回避しておりますので、確かに辻褄が合うようにも見受けられます。 さて、これらの一連の経緯を紐解いてゆきます…。当初、山形県は「山岳信仰を育んだ出羽三山と村山地方などの石鳥屋群」を候補ネタとして国内候補地のリスト入りを目指す方針であったのですが、「一国から同じカテゴリーで二つ以上の世界遺産は認められない」というユネスコの方針があり、その“山岳信仰”というカテゴリーでは既に「紀伊山地の霊場と参詣道(和歌山県の熊野)」が世界遺産に登録されており、このままでは(世界遺産の)登録を目指す国内候補地のリスト入りにすら及ばない事から、急遽、多少の知名度がある「最上川」を加える事にして「出羽三山と最上川が織りなす文化的景観」というお題目で平成18年11月に(世界遺産の)国内候補地のリスト入りを目指してとして文化庁に申請を行いましたが、一応、“継続審査”と云う名目ではあるものの、結果としては“却下”されており、諦めきれない山形県は平成19年10月11日に山形市に於いて行われた会合で「最上川流域を中心とする文化的景観…を主軸に見据えたもの」とやらに変更する方針を固めました。 “世界遺産の登録に伴う様々な規制が出羽三山及びにくく為った(…であろう)”と推察したい処ですが、もしも、そうであったとしたのなら管理人をはじめ、地元住民にとっては何よりも幸いなことでしたが、今度はその“規制と云う災難”が最上川周辺の地域に及ぶ可能性が出てきました。確かに“世界遺産の登録に伴う様々な規制が出羽三山及びにくく為った(…であろう)”と推察は出来ましたが、将来的に最上川が世界遺産に登録された場合、最も規制の厳しい「自然遺産」になるかもしれませんので最上川周辺地域に居を構える方々や最上川で生計を立てている方々は気が気では無いこととお察し致します。同時にこちらにも再び“世界遺産”と云う災いの火の粉が降ってくる事を意味しました。 この当時の山形県の大幅な方針転換の理由を更に精査してみると“出羽三山よりも最上川の方が全世界に向けて発信すべき優れた世界遺産である”などと云う解釈では無いようで… 《山岳信仰を主題の主軸に据えた場合》 ★先に世界遺産の国内候補地の暫定リストに追加された「富士山」には叶わない。 ★既に「紀伊山地の霊場と参詣道(※和歌山県の熊野三山)」が世界遺産登録にされている。 《最上川流域の文化的景観…とやらを主題の主軸に据えた場合》 〜人類の弛まぬ努力によって作り出された流通と農耕に関わる人類の英知を示す最上川〜 ☆(周囲の)山が川(最上川)を守る。 ☆川(最上川)は物と人を運んだ。 ☆川(最上川)は農業を育んだ。 …上記のような大義名分に拠るものでありました。山形県としては「川をテーマとした文化的景観の世界遺産はアジアには未だ無い。人々の生活と結び付き、川の持つ価値を最大限に引き出してきた資産として、類例の無い河川の多面的利用を示す義務がある。」、「最上川は地域の農業を支える水源。そこに住む人たちの心の支えに出羽三山があった。」と云うお題目を大義名分として掲げました…要は何としても県内に“世界遺産”の称号が欲しい山形県は「出羽三山」だと国内のライバル地(熊野や富士山)には勝てそうも無いので意表を突く形で、急遽、ダークホースであった「最上川」を持ってきた…と観るのが正確で万人にも分かり易い説明と謂えるでしょう。 但し、現在の最上川は心ない人々に因って河川敷に「建築資材」や「大型の家電ゴミ」などの不法投棄が日常的に行われており、その対策費(ゴミの撤去)として平成18年度は1,580万円もの公費が撤去費用として投入されました。現実はこのような状況下にありましたので前途は多難なようでした、有り体に申し上げれば最初から“無理な話”ではありました。それでも是が非でも世界遺産の称号を県内に獲得したいと迷走をした山形県の焦りが伺えました。 《最終案〜平成19年12月14日に決定〜》 ☆主題:「最上川の文化的景観」 ☆副題:「舟運と水が育んだ運んだ農と祈り、豊穣な大地」 ☆補足:@「流域の地域を結びながら海と繋がった“舟運”」 A「庄内浜の砂防林や庄内平野の稲作など“北方の稲作」 B「出羽三山や鳥海山に象徴される“水分と祖霊の山”」 ☆大義名分:川と人が共生してきた歴史と文化を強調して“未来に伝えるべき、人類の優れた土地利用の事例”であり〜(中略)〜河川の多様な利用を基本とする地域形成のモデルとなる 貴重な資産である。 大学生の立派な卒業論文の見出しのページのようにも見受けられましたが、そもそも「世界遺産」が発足した歴史的経緯と云うのは発展途上国などのような資金力の乏しい国々にある貴重な遺産を世界中で保護してあげましょう…と云う極めて高尚な理念の下に発足した制度なのであります。当然、それにはワールドワイドなレベルのものが推挙されますので「ピラミッド」や「万里の長城」などのように世界にその名を轟かせた誰もが知っている建築物(や自然)がそこには連想されます。 一方、日本に於いての世界遺産に対する解釈はと謂えば“地域興しの一環”と、かなり異次元(低次元)で捉えられており、山形県に限らず(世界遺産の)国内候補地のリスト入りを目指している他の全国の候補地に目を向けると本来の世界遺産とは凡そかけ離れた唖然とさせられるようなものまでもが名乗りを挙げているようです。それらと比較して「出羽三山」が世界遺産に相応かどうかは、実のところ管理人にもよく分かりませんが、ご多分に漏れず“(世界遺産をネタにした)地域興し”と云う雰囲気は誰もが感じ取れることと思います。先日、先に世界遺産登録が為された地域の方とお話をする機会があったのですが、やはり主眼は「観光誘客」であって、現地のお土産屋さんの店頭には“世界遺産○○饅頭”、“世界遺産△△煎餅”などが軒先を賑わしているのだそうです。又、それよりも深刻な問題として俄に物見遊山的な観光客が増加したことによって、彼等の靴底に付着していた帰化植物などの種子が落ちて、そこに寄生、本来、その地にあった自然の植生が破壊されたり、そこに存在しなかったはずの生物や植物(※前述の帰化植物など)が増えてきているのだそうです。地方に於いて“活性化”と云う言葉は“魔性の言葉”であり、活性化を大義名分にすれば、ほぼ何でも予算が通ってしまうような雰囲気があるように感じられました。 さて、世界遺産登録へ向けた国内候補地のリスト入りを目指して山形県が掲げていた「出羽三山」は「(最上川の)周辺遺産」と格下げには為ったものの、地元に住む者であっても“最上川と出羽三山は何ら脈絡が無いもの(別物)”として捉えられており、せいぜい「奥の細道」で松尾芭蕉が(最上川を)舟下りをした際に「五月雨を集めて早し最上川」という句を詠んだ程度の認識しかありません。前述のように新しいテーマである「最上川流域を中心とする文化的景観…を主軸に見据えたもの」とやらにメインテーマがシフトしたものの、その後も出羽三山が「周辺遺産」として名を留めていたのは気懸かりではありました。 このような事から世界遺産の登録の為には形振(なりふ)り構わない山形県や関係自治体の姿勢が垣間見えてきておりましたが、首都圏や他の地方にお住まいの良識ある方々にはこのような“行政先導の観光振興や地域興しを主たる目的とした世界遺産政策”はさぞや滑稽な姿に見えることでしょう。これは山形県に限ったことではなく他県でも同じ様なことが行われているようです。既に世界遺産に登録された和歌山県の熊野古道では沿道の土地所有者が世界遺産の厳しい規制に拠って自己所有地であるにも関わらず、(自己所有地の)杉の木を伐採出来なく為ってしまったことから、古道の沿道にある多くの杉の木には「世界遺産 反対」と白いペンキで文字が書かれている…と云うことは有名ですが、他にも地元住民を捲き込んだ世界遺産の規制に因る多くの問題点などはマスコミニケーションやインターネットの発達した現在では誰でも簡単に入手が可能な情報なのであります。 この記事を読んでおられる皆さんの地域でも「世界遺産」の国内候補地の登録を目指し、誰かが水面下で奔走しているかもしれません。これを契機に「世界遺産登録に伴う諸問題」にご興味を持たれた方は“検索エンジン”などに「世界遺産 問題」、「世界遺産 反対」などとキーワードを入力されて積極的に調べてみることをお奨め致します。又、このような世界遺産の説明会などには肩書きの立派な大学の先生や世間一般で知識人と称される方が講演をされます。主として土日祝祭日にこのようなイベントが行われておりますが、基本的に彼等は世界遺産のメリットしか述べず、世界遺産に伴う諸規制などについては語ろうとしない傾向にあります。この方々は恐らく全国各地の同様な地域をも廻って講演をされておられるのでしょう。当然、それらの自治体からは往復の旅費、宿泊費、食事代まで支給され、更には講演料まで戴けるのですから、さぞや“美味しいお仕事”かと察しますが、真に見識をお持ちであるのであれば無責任にメリットだけを述べずに世界遺産に絡んだ問題点にも踏み入った言及を行って貰いたいものです。 |
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《総括》 出羽三山の場合は「文化遺産」に該当するとは謂われておりますが、そうなればW、Y、Z、[の前文、]の多くはほぼ解決可能になるかもしれません。但し、これらの件については曖昧な回答しか見当たらず、ちゃんとした明確な論拠を煮詰めないで世界遺産に名乗りを挙げた事に対して、この手向地区に居を構える住民達にとっては未だに不安感や不信感が拭いきれない状況下にあります。何よりも首謀者が行政側であるが故に担当者もコロコロと代わってしまい、責任の所在が明確では無かった点も困った問題でした。何はともあれ、下記をご覧下さい。 「世界遺産への登録申請→手向地区の住民に対して質疑応答の無い説明会」ではなくて… 《STEP1》 世界遺産に登録に為った地域の住民(賛成派&反対派)を招待して手向地区の住民に対して質疑応答の時間を設けた座談会や討論会の開催、その前に「区長会」でも同様に説明を行う 《STEP2》 ↓ 住民が納得 《STEP3》 ↓ 山形県が文化庁に対して世界遺産へ向けての国内候補リストに申請 …という流れが正当な順序で現状の流れは“あべこべ”であると思われますが、この正論が届かないのが本県の世界遺産登録へ向けた運動の不思議なことであります。又、最も肝腎とされる《STEP1》を山形県は放棄しておりますので《STEP2》も存在せず、《STEP3》だけが全速力で突っ走っていたような状況です。 当地に於いて出羽三山の世界遺産登録へ向けてのイベントなどがある度に「賛成派のNPO団体」だけがパネリストとして表舞台に立って受け答えを行い、それがあたかも当地の住民の総意であるようにマスコミ等で恣意的に報道されているのも憂慮すべき事態であると謂えるしょう。マスコミに於いても「大衆世論操作」を行っていると云う悪意までは無いと思いたいのですが、結果的には行政側にすり寄った情報のみを一般市民(一般県民)に報じてしまっていたと云う現実は憂慮すべきことと謂えるでしょう。本来、公平平等であるべきマスコミが本県には存在しないとも謂えます。 実際、討論会のようなリアルな形式での説明会を行った場合、往々にしてそこにも地元メディアの取材が絡んできますので『反対意見などが続出すれば報道されるのは必定であり、それが報じられては困る…。』と山形県や鶴岡市では判断が為されていたのかもしれません。少なくとも表向きの報道では“地元住民も出羽三山の世界遺産登録には前向きに捉えている”と報じられ、周囲からもそのように伝えられておりました。 このような状況を憂う管理人は「先に世界遺産に登録に為った地域の住民(賛成派&反対派)を招待して、手向地区の住民に対して質疑応答形式の座談会や討論会を開催するのが先決であり、それを踏まえて手向地区の住民が充分に納得をしてから世界遺産の登録へ向けて名乗りを挙げるのが順序であろうと思われるのですが…。」と関係諸機関の方々にお願いをしていたのですが、前述のように『それを契機に地元住民の反対運動が発生して、それが“文化庁(※世界遺産の国内候補地を取り扱っている役所)”の耳に届いてしまっては困る…。』と解釈されてしまったのでしょうか、一向に聞き入れて貰えませんでした。 それとは別に『世界遺産に為ったから行ってみよう。』とか『世界遺産で無ければ行っても意味が無い。』などと訪れる際に世界遺産への登録の有無をその地域を含めての判断基準や契機にしている一般の観光客や旅行業関係者の短絡的な姿勢にも大きな問題があるのではないでしょうか。それに観光客とは一度訪れたら二度目に訪れるのは数年後か数十年後であり、恒常性はありません。又、世界遺産の経済的な波及効果はせいぜい1〜2年程度と謂われております。そして、その後、その地域に残るのは“不条理な規制”だけに為ってしまいます、現在の(和歌山県の)熊野のように“自己所有地の山林の木材も自らの意志で伐採出来ない…”という状況も出てくるでしょう。残された地元の住民にとっては“極めて住みにくい住環境としての世界遺産”に為りうる…のかもしれません。 尚、最新の情報として平成21年1月25日に行われた山形県知事選挙に於いて世界遺産を強く推進されておられた現職の斉藤知事が落選、新人の吉村候補が当選しました。この時のニュースは“東北地方で初の女性知事の誕生!”と全国ニュースでも報じられましたので、ご存じの方も多いものと思われます。さて、その後、吉村新知事の英断に拠ってこの世界遺産申請活動自体の予算が凍結される方向で進行中でしたが、その直後から周囲の圧力に屈してしまったのでしょうか、一時期、再びこの活動は息を吹き返してしまいました。 但し、吉村新知事が情報を開示した事から明らかに為ったのですが、山形県が一連の世界遺産の国内候補地として文化庁に申請していた件に関しては、前年、その審査に落選したにも関わらず、再び審査に上げる為の活動費として当時の斉藤知事が音頭を取って年額4,000万円もの費用が計上されていたことが発覚しました。 これらの予算は最上川を世界遺産の候補として山形県民に広く理解して貰うために、○○大学教授とか△△大学準教授といった方々を招集して山形県内で説明会を行う為に発生する諸経費や接待費、県内の広告代理店などに依頼して作成した大きなポスターやパンフレットなどの資料に要する諸経費、或いは“視察”と称して(彼等が)国内や場合に拠っては海外の世界遺産登録地や候補地などへの“出張”を行い、それに伴う交通費や出張手当(日当など)などが支給されていたことは想像に難くありません。 これは山形県だけに限ったことでは無いと思われますが、行政側(山形県)が“重要な事”を広く県民に啓蒙する際は必ずと言ってもよいほどに○○大学教授とか△△大学準教授のような方々を招集してアカデミックなな雰囲気を醸し出して説明会を行います。但し、前述をしましたが、昨今、インターネットなどの普及に伴い、地方でも情報の入手方法が進んだ現在に於いて、『○○大学教授の有り難いお話だ!。』、『△△大学準教授のお話だから(言ってることは)間違いは無いだろう。』などと県民が鵜呑みをしてくれるであろう…。と、行政側(山形県)が目論んでいるとするのであれば、それは甚だ時代錯誤的な“上から目線的な暴論であることは否めません。地方には「御上(おかみ)が決めた事なので下々の者は従うように!、○○大学教授や△△大学準教授もそうおっしゃられているのだから…。」と、ある種、行政側が一般市民(一般県民)を見下して(愚民として)物事を押し進めようとする雰囲気が、未だに色濃く残っているようにも見受けられます。 《顛末》 平成21年5月12日(火)の山形県内ニュース(NHK山形)にて「山形県が最上川の世界遺産登録へ向けた一連の運動を正式に断念する事を発表しました。」との旨の報道が為されました。一度、世界遺産登録へ向けた国内候補地の暫定リスト入りに落選したにも関わらず、行政側が引き続き暫定リスト入りを目指す目的で運動を継続している事に対する良識のある多くの県民からの指摘(非難)が多くあった事に加え、更に財政難の折、これらの運動を継続する事に因って新たに3〜4億円もの費用が発生する事が判明した事に対して「税金の無駄遣いである!。」との批判が集中したものであると思われます。 結果、これらの運動は予算が撤回されると同時に正式に断念され、管理人をはじめ良識のある多くの県民は『やれやれ…。』と安堵している次第です。一時的であったにせよ、地元住民を無視して行政側が一方的に手動を行って“日本式の世界遺産登録”を目指して暴走したことは憂慮すべき事態であり、今後、このようなことが発生しないように住民としては注視することが肝要かと思われます。 最上川は最上川。今までも、そしてこれからも“山形県の母なる川”として県民から愛され、親しまれてゆくでしょう。『日本式の観光主導型の世界遺産への登録を行い、敢えて出羽三山や最上川などを国内外に鼓舞すべきではない…。』と管理人は考えます。但し、この前職の斉藤知事が次の県知事選挙に再出馬され、返り咲いた場合にはこの運動が再び息を吹き返す事も懸念されております。 |